ブログの記事を早速読んでもらった。いくつか訂正の入った1つに、一番面白かったのは「すばらしい職人さん」と書いたところの”すばらしい”というのを消され、おじいさんは語る。「君ね〜。すばらしいとか、すばらしくないなんてないんだよ。偉いとか偉くないなんていうのもないし、こっちの方が良いも悪いもない。人間はそうやって何かと比較をしようとするけど、そもそも全く違うもの。例えば、君が昨日食べたアフリカ料理と日本料理、どちらが美味しい?と、聞いたところで、全く違うものを比較して、甲乙をつけることは出来ないでしょう。もちろんアフリカで育った人にとっては、アフリカ料理が美味しく、日本で育った人には日本食がおいしいとは言えるかもしれない。もしくは、自分の家庭の味しか知らなかったら、そもそも比較するものがないのだから、その味がおいしいに決まっている。」そして話は戦争時代へ。近所の人が特攻隊として、この世を絶つ前日の話をしてくれた。所謂、多くの人が、生きることへの選択権のなかった時代かもしれない。もちろん、今でも、生きるという選択権があるかというと、実は誰にもないのかもしれないけれども、それでも、かなり高い確率で、生きる場所や、どのように生きるかなんていう贅沢な選択権を一応にいくつか与えられているかもしれない。でも、本当はそんなものは重要でないのかもしれない。今、ここに生きていることが、もうそれだけで十分に素晴らしい。これまた素晴らしいとか素晴らしくないというのはおかしい。今、ここに生きているという現実を知ると、これに自然と感謝の気持ちが沸くのかもしれない。人間は比較をしなくなったとき、本当に素晴らしい共存の時代がやってくるのかもしれない。オリンピックの表彰台の段が一直線になったとき、世界は変わると思うな〜。と嬉しそうに話をしていた。
ふと、子供の頃、私が友達と同じおもちゃが欲しいとか、友達の家ではこれをしてもよかったなど、言うと、よく親から言われていた「よその家はよその家、家は家」。そして3つ年上の兄は門限が遅くて、私の門限はとてつもなく早かった。そして親は言う、「人は人、自分は自分」。あれ?納得いくようで、納得のいかない話だ。ひとつだけ納得がいくとすれば、他の人がそうしてるから、私もやりたい、という理由は、理由にならないということ。
ここに今、生きていることに感謝をして、今を大切に生きること。ただそれだけで今が変わるかもしれない。
素敵な出会いだね~。
返信削除最近、こういう聞いていて心に響く話をよく耳にします。
そういう話を聞けたり、そういう出会いがあることにとても感謝。生きていく上で大切なものをもらった気がする。
比較することをやめ、起こった出来事をしっかりと味わって次へ活かし、何が起こっても慌てず、驚かず生きていければいいなと思う。なかなか難しいけど。。
帰国したら、またお話聞かせてね!
ありがと〜!共感してもらえて嬉しいです。日々の痛み、苦しさ、悲しさ、そして喜びも全部、料理を味わうように楽しんで味わえたら、全てが美味しく感じられるかもしれないね〜。
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